自己分析と他者分析の決定的な違いを思い知った
とある海外メディアの特集が日本で報道され、私たちのことを心に傷を負った人たちだと表現した。彼らに奇異にうつる私たちの行動、それは心の傷の論理があるから、納得することができるんだよと。
それは病理の論理じゃないのか。
私たちFurryはみな心の傷を負って不幸な人間で、貴方たちのような「普通の」になれなかったからカウンセリングとして着ぐるみを着ているとえもいいたいんか。
確かに心の傷の理論を使って私も私自身を考察したことがある。自分の心に欠けたもの、何かを埋める代償性行為として、このfurryという世界を求めたことがないわけではない。
しかし、それを他者によってそういう人間だと評価されること、この世界はそういう人間ばかりだと他者から論理を押し付けられることが、それだけ恐ろしいかと。
かつて同性愛者に対して病理の論理を用いて脳を切り取った過去と何がちがうのか。
自分自身の行動に対してロジックを求めることと、理解できない他者に対してロジックを押し付けることは、似ているようで全く違う。
多様性を認めない画一化された社会は、容易にお前は病気だ、異常だというレッテルを貼る。傷ついて、弱くて、敗北者で、無能で、社会から外されるべき、何をするかわからない、排除して隔離して矯正施設に収納しておくべきだってね。
私たちはあなたたちを「普通」だと安心させるために消費される道化じゃない。
私たちは私たちのために私たちの社会を築いて、その居場所を作っている。私たちの文化を語るのは私たちであり、あなたたちに勝手に病気だ根暗だ心の傷だと言われる筋合いはない。
私たちは私たちの言葉を持っている。
私たちを空想上の人間と描き、自分のストーリーに当てはめようとする。そんなケモノを心に宿さない人間にケモノを語られたくはない。
自分たちで自分たちを語る言葉を持つということ、
そして持たないということはこういうことなのだと実感したわ。
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浜名湖にある美味しいピザとパスタの店。二回目の訪問。
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