子供の頃は文字が嫌いだった。
文章を書くのも嫌いだった。本を読むのも嫌いだった。
それはなぜか?否定されたから。
けれど、子供のころに否定されたことなんてもっともっとたくさんあったはず。たとえば字の汚さはえらく言われたし、そこから人格否定もそこそこされた。
絵を描いては否定され、スポーツをやっては否定され、勉強をしても否定された。眼が悪いことも否定されたし、好きなものはことごとく全て否定された。
あまり肯定された記憶がないなぁと思いながら、過去に自分が否定された経験を並べてみると、1つ気が付いた。
色んな否定の経験、それによって与えられた傷の深さは全然違うということに。私にとって、文章や本を読むことを否定された経験は、スポーツを否定された経験よりもはるかに鮮明に記憶に残っている。満点をとれなくて否定された経験よりも、絵の才能がないと言われた経験の方が傷が深い。おそらく、今思い出せないたくさんの否定の経験もあるのだろう。否定が基本の世界で育ってきたのだから。
その否定が基本の世界から抜け出して、初めて陽の気を持つ人たちと出会ったとき、世の中の広さを知ることができた。そして同時に、自分が与えられてきた傷は、癒えはしても消えることはないし、そして何よりも、自分自身では気が付かないものなのだと気が付いた。
大人になるにつれて、私の嫌な部分として、その見えない傷が私を蝕む感覚がある。
その傷を一つ一つみつけては掘り起し、奥底で膿んだ病巣を切り取らなければいけない。
自分の傷に鈍感なのか、それとも傷が多すぎるのか、正直よくわからないが、
この自己肯定を育てなおす作業はいつまで続くのだろうか。
そしていつか自分に資格を与えられる日はくるのだろうか。
あぁ、愛された人がうらやましいわ。
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大井町の住宅街、にあるのでとても分かり辛い。
しかしアジトイズムさんを通り過ぎてすぐなので、どちらかに来たことがあればすぐにわかると思う。カウンターのみのとても小さなお店。
一言でいえば「惜しい」ラーメン。
スープよし、具材よし、しかし、麺が、、普通、、、!
おそらく意図して柔らかめに茹でているのだと思う。あっさりとした鶏と醤油のスープを麺になじませるためにはいい発想。しかし、柔らかめがゆえに、麺自体の存在感が薄くなってしまって、結果ラーメン全体のクオリティを下げてしまっている気がする。
もう一歩、あと一歩である。あと一歩届けば、次のレベルに行けると思う。
百名店に入るのも夢じゃない。
あと訪問したのはランチだけど、10円丼なるものがあった。
一口サイズのライスの上に、4種類から選べるトッピング。
ちょっとしたおまけみたいなもので、とてもいいアイデアだと思ったわ。
これからまだまだ強くなれそう。そんな雰囲気を感じるお店でした。