人はどうしようもない罪悪感に対してどう折り合いをつけるのか。
Twitterで言うと炎上しそうだからこちらに書く。
最近Twitterでよく見るヴィーガンdis。過激で暴力的なヴィーガンのやり方をあげつらえて、なかなかなお言葉で菜食主義を否定する。私はヴィーガンではないが、一部の人たちの行動を切り取ってすべてを否定する行為は見てて全く気持ちのいいものではない。
そう思っていたさなか、またヴィーガンdisコメントの一つとしてこの言葉をよく見かける。
「日本人にはいただきますの精神がある」
私ね、この言葉にだけは違和感をめちゃくちゃ感じるのよ。
感謝して食えば殺してもオッケーなの?
本当にいただきます言うたびに死んでいった動物たちに思いをはせてるの?
思いをはせればオッケーなの?
そもそも目の前の食べ物の製造工程知ってる?
どういう風に肉が生産されてるか知ってる?
ラーメンって何でできてるか知ってる?
っていうかいただきますの精神って何???
私はこの国で動物の肉がどういう風に生産されるかの一部を見て、薬や身の回りの雑貨がどういう風に動物を犠牲にしたうえで作られているのかの一部も見た。
この世界のほんの一部ですら目を背けたくなる現実がそこにあって、でもこの社会で生活して欲求を満たして豊かさを維持していくためには、この動物の犠牲が必要だし、しかもこれは世界のほんの一部で、自分がどれだけの動物の犠牲の上に存在しているかなんて想像が及ぶはずもなくて、
そんな途方もなく輪郭をつかみようがない巨大なシステムに罪悪感でも感じながら祈っているの?毎回?しかもそうやって祈ったらすべてがチャラになるの??
何もしらんで何もしてないのに、何がいただきますよ。んなもんあってもなくても結局あんたの中の問題であって、現実は何も変わらん。だったら自分の手の届く範囲で行動をして折り合いつけている人の方が説得力あるわ。
ただ、この肉食に対する罪悪感って、いくら行動しても結局は自分自身との折り合いだと思うのよね。私たち一人がシステムを変えられるわけでもなければ、知らないところで動物の犠牲のシステムにもたっている。自分の行動を他人に押し付ければ拒否されるのは当たり前。
だからいただきますという言葉って、色々と考えて悩んで、平和的に自分と折り合いをつけるためにはとてもいい言葉だと思うのよ。どうしようもないときに祈るってのは人間性の最後であり最大の砦だと思うのよね。
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こんな肉食菜食の話をした後にラーメンレビューかよと思われるかもしれない。
私はラーメンはやめることができないのだ…それが私の罪…。地獄に落ちたらラーメンに加工されてレビューを書かれるだろう。
うーん、やっぱり人間でとったスープは雑味が残るね!2.5点!みたいな。
雪が谷大塚という駅に来たのはこれが初めてである。
というか東急池上線にのったのが初めて。
蒲田と五反田ってこんな電車でつながっていたのね…知らなかったわ…。
駅からは割とちかい。
一日〇食の限定ラーメンがたくさんあり、醤油やら塩やら坦々麺やら、意外とメニューは豊富である。おそらく看板メニューであろう葉月ラーメンを選択。
醤油ベースのスープで、かつお節と煮干しの出汁がかなり効いている。鰹の香味油を使っているらしく、これが特徴的な香りとして他の醤油ラーメンとは一線を画す仕上がりになっている。
チャーシューも香り高く、さらに肉厚で、ぱるで上質をパテを食べているような感覚になる。都内でも魚介系醤油としては最高峰になるのでは?
雪が谷大塚というアクセスの悪さがなければ間違いなく連日行列のラーメン屋になっていたと思う。地元のお客さんが多いみたいだが、遠征して行く価値あり。