変身したい俺とさせられたい私

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変身したいという願望と、変身させられたいという願望は何が違うのだろう。
私は誰しもが両方の願望を持っているとは思っているが、それらがどういう役割をもっているかはわからない。ただ私が語れるのは、私にとってはどういうものであるのか、という考察だけ。

私にはとてもわかりやすいTF願望の象徴がある。それは着ぐるみであり、アイラとリベットというキャラクターだ。
私にとってアイラはfursonaであり、リベットはfursonaであるリベットが憧れる存在である。

fursonaとは自身のケモノの姿であり、そしてケモノとは何かと聞かれたとき、私は逃避の具現化であるという答えをもっている。(もちろんこれは皆に当てはまるものではない)

そして私はアイラという逃避を自身のアイデンティティーとして持っており、アイラという存在にさせられたがっている。そしてリベットという存在になりたがっている。

もう少し噛み砕くと、私はメイド服やフリフリの姫ロリの服を 着 さ せ ら れ た 二足歩行の猫になり、主従関係の下につきたいという願望があり、それがアイラというキャラクターに現れている。
彼女は常に被害者であり、責任を問われることはなく、ただ弱くかわいい存在である。現代の私が持とうと思ってもモテいない社会性だ。

一方リベットというキャラクターは、彼女はサキュバスであり、性に対して積極的な♀であり、セックスシンボルでもある。そして私が憧れる、赤くて、腰まで届くたてがみの様な髪の毛をもっている。
私は彼女のようになりたいとおもって、憧れをもっているが、彼女では私の逃避は解消しきれない。彼女は常に加害者であり、自身の表し方に責任を持ち、強く、強く、美しい存在でなければならない。私は彼女のようになりたいが、させられたいとは思わない。

変身に対する能動性と受動性の違いというのは、願望と逃避に紐づけることができ、そしてこれは性の分野とも大きく関わると思う。変身における性との結びつきは、圧倒的に受動性、逃避の側が強い。

私自身、変身と性は大きく結びついている実感を持っているが、たしかにそれは変身「させられる」状況において強く感じることが多い。
ただただ弱い存在の猫になるとき、アイラになるとき、確実に私は性的な充足感を得ている。しかし、わたしよりも強く美しい存在のリベットになるときは、私に性的な充足感はない。あるのは彼女という存在を演じるという満足感である。

おそらくこの性的な充足感の違い、逃避と願望は個人によって感じ方が異なるとは思う。私の周りには、自身が弱い存在になることに対して恐怖心や劣等感を感じる人は少なくない。これは育ってきた環境と親に、どれだけ傷つけられたのか、という違いに一つの答えがあると思う。

いずれにせよ、わたしという個人においては、変身に対する能動性と受動性、願望と逃避、性的要素が連動しており、それが着ぐるみによって具現化され表現されている。
私というものの精神構造の一部が、ここに認めることができるという事実は、誰かにとって、私にとって有益なことになるかもしれない。